毎年9月は横浜市中区の寿町に関わっている方々とお墓まいりに出かけます。
身寄りのない方々が入るお墓や、寿町の仲間たちが眠るお墓へ行きます。
それに加えて、今年は初めて、誰かもわからないまま命を奪われてしまった氏名不詳の朝鮮の方々の慰霊祭へ行きました。
10年ほど前から誘われていましたが、初めて行きました。
とてもあたたかい会でした。
寿町でよくお見かけする方や、知っている顔にも会うことができました。
鎮魂の舞を踊る方や、高校生の澄んだ歌声、残酷な歴史を思いつつ現在の自分の置かれる場に向き合って叫ぶラッパーなど、様々な表現が許されている安心な空間に思えました。
私は、上京して初めて在日韓国人の友達ができるまで、差別というものとは無縁に生きてきました。
無縁だと思っていただけかもしれません。
ほかの国籍の方に会う機会がほとんどない、狭いコミュニティで育ちました。
しかし、大人になって調べてみると、私が生まれ育った青森県八戸市というところは、安藤昌益ゆかりの土地でもあり、農作物が育ちにくく多くの方が飢饉でなくなったため、みんなで協力して生きてきた民族であり、差別が少なかったとも言われているようでした。
さらに、地元を離れてだいぶ経ってから自分の生まれ育った地域の方々とやりとりすることがあり、特に自分の育った環境が恵まれていたことがわかりました。
それは、祖母も母親も看護師だったこともありますが、地域に大きな病院があり、そこに勤めていた人の子どもが多く同級生にいたということです。
私はとんでもなく難しい性格の人であったにもかかわらず、友達は平気な顔をしてつきあってくれていたと思います。
大人になっても変わりはありません。
とはいっても、子ども同士の、からかいやいじめのようなものはありました。
障がいを持つ子どもも近所に何人か住んでいて、全く差別的なことがないかといえばそんなことはなかったと思います。
それでも、なんとなく共存して生活していたのだと思います。
外に出てみて、優しい場所に住んでいたのだと感じます。
私自身が差別を感じたことは、高校を卒業して同じ青森県内の弘前へ移り住んだときです。
私が生まれ育った八戸市は南部。
弘前市は津軽。
南部と津軽は戦国時代からの因縁があるとかで、仲が悪いと言われています。
あるとき、仲良くなったおじさんと長話しているときに八戸市出身だ。と話したとたんにピシャリと扉を閉められてしまったことがあります。
もちろん、全員がそうではありませんが、これまでの人生の中で、津軽出身の年配の方の目の敵にされてトラブルになったことが何度かありました。
特に私の初めての挫折は、弘前で住んでいた弘前大学学生寮の同僚であるマレーシア人の友達のことで、寮の食堂にかけあったときでした。
宗教上の理由でお肉を食べることができないという彼女のために、せめてサラダの上にのっているハムをのせずに別盛りで出せないか。とお願いしにいったことがあります。
しかし、門前払いでした。
決まっていることは変えられないとのことでした。
悔しくて、悔しくて、寮の食堂の隣のピアノがある部屋で泣きました。
このとき、初めて国籍の違いによる価値観や習慣の違いを目の当たりにしました。
この二年後、私は流れで寮長を務めることになってしまいましたが、このときやっと大学側に留学生の生活環境を整えてほしいと大学側に伝えることができました。
その後、上京してさらに様々な人に出会い、様々な差別問題に出会うことになりました。
とても難しくて繊細な問題なので、自分からは関わらないようにしていますが、なぜかご縁があり、そういう問題を抱える場所に関わることが多いです。
まずは、知ることから始めたいと思います。
今月はもう一件お墓まいりがあります。
なぜか、子どものころからお墓まいりが大好きです。
変かもしれません。
家族がそろうからかもしれません。
心がすっとします。
自分が亡くなったあとどこへ行くのか、そして亡くなったあの人に手を合わせたいときにどこに行けばいいのか。
そんなもやもやした思いのよりどころになってくれた寿町のお地蔵さんのお話。
ぜひご覧ください。
このお話のモデルになったお寺に行ってきます。
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